『保健同人』創刊にあたって

結核療養のための指導啓発雑誌『保健同人』は、弊社の創立者・大渡順二自らの結核闘病体験をもとに生まれました。

適切な治療と療養の指導を得られない、もどかしさと苛立ち

太平洋戦争真っ只中の1943年(昭和18年)、大渡が結核を発病した当時、治療といえば安静療養が中心でした。外科療法をすすめる医師もいることはいましたが、その説明は患者を納得、安心させるほど十分なものではなく、内科医の多くも、手術には反対の立場。かといって療養の決め手となる指導も得られないまま、彷徨の療養生活が続きます。

疎開先の京都では温泉療法なども試みましたが、回復に向かっている兆候はなく、再び外科医を受診。大渡の胸部レントゲン写真を前に、医師は深刻な表情で「このままではいけない!」とつぶやきました。この言葉に危機感を抱いた大渡は意を決して、肋骨6本を切除する「胸郭形成術」を受けます。命を「科学」に賭けたのです。発病から10ヶ月目のことでした。

しかし、術後の絶対安静療養を経ても、手術ですべてが解決するわけでないことをその身体から知らされました。「結局、どこでも本当に適切な治療と療養の指導を与えてはくれない」。そんなもどかしさと苛立ちが膨らんでいきます。同時に、「全国の多くの結核患者が、自分と同じ思いをしながら疑心暗鬼の闘病生活を余儀なくされているのだ」……。かつて勤務していた朝日新聞社時代に培われた大渡のジャーナリスト精神が頭をもたげていきます。

医師・隈部英雄氏と結核が抱える問題点について議論を戦わせる

1945年(昭和20年)、終戦に伴い東京に戻った大渡は、結核予防会上北沢予防会の医師・隈部英雄氏を訪ねます。そこで、患者が知りたいこと、知っておくべきことを、なぜ医師から正しく伝えてもらえないのかと迫りました。そのときの様子を隈部氏はのちに著書の中でおおよそ次のように記しています。

「大渡君の質問は1つ1つが鋭く、しかも1人の患者の立場を超え、ひろく同病に悩む患者の代弁者として、医者並びに医学一般に対する鋭い批判にまで及びました。ことここに及んでは私も黙っておられず、1つ1つに対して、できるだけ詳細に反ばくせざるを得なくなりました。いつのまにか、私は医者全体の代表、大渡君は患者全体の代表として議論を戦わせることになったのです」。

このときの議論をきっかけに、大渡の心に誰にもわかりやすい「結核の大衆啓発雑誌」を作ろうという強い思いが生まれました。

1946年(昭和21年)に隈部氏を始めとする同志が初会合をもち、ひろく結核の正しい知識を普及させるための『保健同人』の発行を決めました。書名は、雑誌に携わる同志も療養者の読者も、みな同じ志をもった同人(仲間)でありたいという願いから名づけられました。

創刊号の巻頭に掲げた「願ひ」と東山魁夷画伯の装画

創刊号の巻頭に掲げた「願ひ」と東山魁夷画伯の装画

1946年6月1日、東山魁夷画伯による表紙画に飾られた『保健同人』創刊号が完成しました。東山画伯の弟さんが結核を患っていたことから特別に引き受けてくれたのです。巻頭には、編集部が発信する「願ひ」を掲げました。

健かなるも驕らず、病めるも屈せず
あかるく、逞しく、力をあはせ
お互の手で、お互のために、たすけあいませう。
六尺の床も、わたしたちの天与の道場。
ここにあたらしい生活の出発のあることを感謝しませう。
病に親しむとともに
病を生活しませう―それは飽くまでも厳しく科学的に。
いままでの迷ひを反省し
懐疑をはらひ、臆説をただして
新しい科学の大道に予防と療養の生活を再建しませう。
道はただひとつ
―結核を科学しませう。

この「願ひ」は、保健同人社そのものの願いであり、心身の健康全般を取り扱うようになった現在も、弊社に引き継がれている精神です。

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