
太平洋戦争真っただ中の当時、結核は「不治の病」と⾔われ、患者はなす術もなく安静療養をするしかない状況にありました。創業者の⼤渡順⼆は⾃らの闘病体験をきっかけに、患者⾃⾝が正しい知識を⾝につけ、主体的に病気と対峙するよう啓発する使命に⼼を燃やします。
1946年1⽉、結核療養のための指導啓発雑誌発刊を⽬的に「保健同⼈」を旗上げ(今のNPO)、6⽉には同名の雑誌を創刊しました。『保健同⼈』という書名は、雑誌に携わる同志も療養者の読者も、みな同じ志をもった同⼈(仲間)でありたいという願いから名づけられたものです。また表紙は、弟さんが結核を患ったことで⼤渡の意志に賛同した東⼭魁夷画伯の絵で飾られました。
その後、保健同⼈は、雑誌のほかにも書籍やラジオ番組、専⾨医による「⾯接療養相談室」や診療所の開設など、さまざまな⽅法で正しい結核知識の啓発・普及を⾏います。そして、結核予防の功労団体として、1952年に厚⽣⼤⾂賞、1956年に保健⽂化賞を受賞しました。

「医療というのは、医師だけの⼿ではうまくいくものではない。よき 医師とよき患者との共感、協⼒があって実る」というのは、創⽴者・ ⼤渡順⼆および同志の⼀貫とした主張です。1954年(昭和29年)に始まった「⼈間ドック」の開発は、この主張を具現化し、予防医学に⾵⽳をあける⼤きな挑戦でした。 当時、成⼈病(⽣活習慣病)が問題になりつつあり、予防や治療のために全⾝の健康状態をチェックすることが必要となりました。しかし、数⼗項⽬の検査をするためには何か⽉もかかったのです。この病院中⼼のシステムを改めようと創案したのが「⼈間ドック」です。 検査開始から総合判定まで6⽇間で実施するためのアイデアは、国⽴東京第⼀病院(現・国⽴国際医療センター)の守屋 博医師との議論で⽣まれ、まずは同病院にて試運転が⾏われました。その後、当社の運営のもと、検診作業は国⽴東京第⼀病院の担当でスタート。当初、「短期間⼊院特別健康精査」と呼ばれていたこのしくみは、読売新聞に⼤きく紹介された際に「⼈間ドック」と称され、全国に広がって定着し、今⽇に⾄ります。1960年、「⼈間ドック」創案・開発に対し、⽇本病院協会賞受賞。